メイン

デコメ

峰山高 - 南海(1954年 - 1977年) - ロッテ(1978年) - 西武(1979年 - 1980年) - TBS・テレビ朝日野球解説 - ヤクルト監督(1990年 - 1998年) - 阪神監督(1999年 - 2001年) - シダックス監督(2002年 - 2005年) - 楽天監督(2006年 - ) 来歴・人物高速バス 広島 愛称は「ノムさん」、「ノム」。あるいは「ノムやん」、「ムース」。ムースとは、ロッキー山脈に生息する、普段のっそりしているが非常に敏感で頭がよい「へら鹿」の事であり、このあだ名は、野村が、のそっとしているがいろいろな動きによく反応していることから、日米野球で来日したウィリー・メイズによってつけられた。現役時代のポジションは捕手。現妻はタレントの野村沙知代。子は現・楽天1軍バッテリーコーチの野村克則。前妻の間にも男子が1人いる。継子にはプロ野球エージェントの団野村、ケニー野村がいる。高速バス 横浜 通算試合出場数は歴代1位、通算の安打、本塁打、打点、塁打数は歴代2位で、いずれもパ・リーグ記録である。球史に名を残す選手であり、本人は「俺は王貞治さえいなければ三冠王だった」とぼやいている。監督としても、リーグ優勝5回、日本一3回の実績を残し、日本を代表する名監督と評価されている。また史上唯一、選手・監督両方での3000試合出場を達成している。 選手・監督時代を通じて勝つために様々な工夫や駆け引きを重ねており、野球理論・野球技術の発展に貢献している。高速バス 格安 現役・解説者時代は巨人をけなす発言を繰り返しているが、実際は幼少のころからの巨人ファンである。著書「巨人軍論」によれば、幼少時代はラジオから聞こえてくるプロ野球中継は巨人の試合しかなく、そのため自然と巨人ファンになったという。例として息子の克則が2004年に巨人に入団する際、堀内恒夫が監督として就任したがそれを絶賛する等で歓迎する発言をしていた。しかし、自身がプロ入りする際は捕手の層の厚い巨人に行くことはあきらめたという。また、「サインプレーやデータ活用など、かつて球界の先駆者だった巨人が理想のチームである」という。現役引退後の解説者時代には、従来の結果論でものを言うのではなく、理路整然とデータを元に説明した。通称「野村スコープ」を駆使し、投手の配球をほぼ100パーセント的中させたのは有名である。これも打者やバッテリーの情報を把握していればこそと言え、2007年のパ・リーグクライマックスシリーズのテレビ解説でも、あらためてその正確さを示した。 プロ入りまで高速バス TDL 少年時代は家庭が貧しく、父要一は野村が3歳の時に満州にて戦死。実際は道端の供え物を食べて亡くなったらしく、幼少時代に情けない思いをしたと語っている。丹後ちりめんの産地で、周囲は裕福な家庭が多く、貧困の劣等感にさいなまれながら、小学校1年から兄とともに毎日新聞配達をしていた。しかし、母がガンを患い、病弱で父の戦友の助けも借り何とか生活した。頑丈な体と精神はこのころ作られたといえる。貧乏な生活から脱却したいとの思いから、将来は歌手になろうとコーラス部に所属したり、俳優になろうと映画館通いをしていた。パラオ ダイビング 中学を卒業したら働くようにと母から言われた。しかし兄が大学受験を断念する等の取り計らいにより何とか高校進学を果たした。高校入学後、母には内緒で野球部に入部するがばれてしまい、退部するよう言われるも、これもまた顧問の先生の取り計らいにより続けさせてもらった。生活が満足に送れない家庭で生まれ育ったため、バットも買えなかった。そのため、学校に一升瓶を持って通い、帰宅途中に海で海水を一升瓶に入れ、その一升瓶で素振りをして練習していたと言う。高校の野球部は大変弱く、プロには見向きもされなかった。しかし、顧問の先生が、当時南海の監督だった鶴岡一人(当時は山本姓)に手紙を送り、情に厚い鶴岡は感動して、テスト生として採用した。鶴岡の「カベ(ブルペンキャッチャー)用にでも入れておけや」の一言で入団が決まったとされる。 現役時代石垣島 ダイビング プロ入り〜レギュラー定着 アマチュア時代は全くの無名選手だったが、京都府立峰山高等学校から契約金0のテスト生として1954年に南海に入団。南海の入団テストを受けた理由は、当時の南海の捕手層が薄く、しかも高齢化していたことから一軍のレギュラーに一番なりやすいと踏んだからである。よって大の巨人ファンだったにも拘らず、巨人の入団テストを受けようとはしなかった。当時の巨人は藤尾茂という捕手が活躍していたため断念せざるを得なかったと野村本人は語っている。なお、実際には入団テストで落ちており、その年のキャンプイン前に入団テスト合格者の一人が個人の都合により入団しなかったため、野村は辛くも繰上げで入団する。SEOとは 当時の南海は鶴岡監督のもと、毎年優勝争いを繰り広げていた。その年のシーズンは入団してからしばらく試合すら出場できなかった。初打席は代打での出場で三振に終わり、結局1年目は9試合に出場し11打数無安打だった。シーズンオフにマネージャーに呼び出され突然戦力外通告を受ける。しかし、秋季キャンプ中に当時の正捕手が交通事故、2番手捕手がトレード、3番手捕手が怪我をしたことで、南海は捕手不足となり残留。自身の発言では「もしここでクビになるようなら生きていけません。南海電鉄に飛び込んで自殺します」と辛抱強く交渉し担当マネージャーに「お前のようなやつは初めてだ、でも若いうちなら人生はやり直せる。お前は活躍できないんだぞ。俺の目は確かだ。」と苦言を言われつつも何とか残ったと語っている。セブ ダイビング しかし、肩が弱かったため、秋季キャンプで首脳陣から一塁手にコンバートを言い渡された。当時の南海には飯田徳治という球界を代表する不動の一塁手がいたため、このままではレギュラーになれないと考えた野村は捕手に再コンバートしてもらいたい一心で、毎日素振りを繰り返し、砂を詰めた一升瓶やテニスボール、握力計、鉄アレイなどを使って筋力を鍛え、遠投で肩を強化した。このような努力が実り、2年目の秋季キャンプで捕手に再コンバートされる。 3年目の1956年、ハワイ春季キャンプで1軍に抜擢されたのをきっかけに正捕手に定着した。 大選手への道 1957年に山内和弘(毎日)、中西太(西鉄)ら並居るスラッガーを抑え本塁打王のタイトルを獲得。以降毎年のようにタイトルを獲得し、南海の黄金時代を支える。南海は1959年、1961年、1964年、1965年、1966年にリーグ優勝、そのうち1959年と1964年は日本一になっている。この時期の同僚に投手の杉浦忠、森中千香良、ジョー・スタンカ、皆川睦雄、三浦清弘、田中俊幸、村上雅則、野手の岡本伊三美、森下整鎮、広瀬叔功、大沢啓二、穴吹義雄、福田昌久、カールトン半田、井上登、柴田猛、ジャック・ブルーム、国貞泰汎らがいる。ビジネスホテル大阪 1962年、別当薫(毎日オリオンズ)の持っていたパ・リーグ記録のシーズン43本塁打(1950年)を抜く44号を記録。1963年には小鶴誠(松竹ロビンス)がこれも1950年に記録したシーズン51本塁打を破るプロ野球新の52本塁打を記録。1962年の44号、1963年の52号はともに最終戦、最終打席で打った起死回生と言える一打だった。なお、どちらも打たれたのは近鉄バファローズの山本重政である。シーズン52本塁打はプロ野球記録としては翌年王貞治が55本塁打を記録、更新されたが、パ・リーグ記録としては2001年にタフィ・ローズが更新(55本)するまで長く残っていた。 1965年には戦後初めての三冠王に輝く。 当時のパ・リーグには西鉄の中西、豊田泰光、毎日(後に大毎)の山内、田宮謙次郎、榎本喜八、東映フライヤーズの張本勲、大杉勝男、阪急のダリル・スペンサー、長池徳士、近鉄の土井正博、永淵洋三がといった強打者がひしめいていたが、彼らとライバルとして切磋琢磨し、三冠王や8年連続本塁打王などの輝かしい実績を残した。大阪ビジネスホテル しかし、同時期にセ・リーグで活躍していた巨人の長嶋茂雄や王貞治に比べると世間から注目されることは少なく、今に伝えられる野村の打者としての評価も目立たないものである。1975年5月13日、野村が史上初の通算2500本安打を達成したときも、当日の観客はわずか6000人ほどであり、また拍手をしたのは数十人だったといわれる。野村はこの試合後のインタビューで、「王や長嶋がヒマワリなら、オレはひっそりと日本海に咲く月見草」と答えた。以後、「月見草」が野村の代名詞となった。 多くの打撃に関する記録を築いたが、年間最多本塁打の記録を更新した翌年の1964年に王に更新され(現日本記録の55本塁打)、1973年に通算最多本塁打の記録を(約2週間の攻防の末)王に、1978年には一晩のうちに通算最多打点を王に、通算最多安打を張本勲(当時巨人)に破られるという経験もしている。王は1973年以降のオールスター戦で、野村がマスクを被った試合では27打数1安打0本塁打と完全に押さえ込まれている。宮古島 ダイビング また、足は遅い方だったが、通算117盗塁を記録。そのうちホーム・スチールが7回、トリプル・スチールは2回ある。